SPECIAL

カルロス・トシキ Special Interview

35年前、1986オメガトライブのボーカリストとしてデビューを果たしたカルロス・トシキ。「君は1000%」の大ヒットをきっかけに、その独特の甘い歌声は瞬く間に日本中を魅了した。長年のファンのみならず、新しい世代からも再評価されているシティポップの源流となった1986オメガトライブの音楽は、カルロスの存在抜きでは語ることはできない。現在は故郷・ブラジルで実業家として多忙な日々を送るカルロスにリモート・インタビューを行い、デビューのきっかけから『To Your Summertime Smile』収録曲の思い出、レコーディングやライブのエピソード等、1986オメガトライブ/カルロストシキ&オメガトライブへの思いをたっぷりと聞かせてもらった。

――1986オメガトライブ35年記念アルバム『To Your Summertime Smile』発売決定おめでとうございます!80年代のシティ・ポップが見直されていることもあって、この作品は今の若い音楽ファンにも聴いてもらえるのではないでしょうか。

是非聴いてほしいですね。今回のリミックスアルバムを聴かせてもらったら、素晴らしい音でした。アレンジャーの新川(博)さんをはじめ関わっているスタッフさん、本当に一生懸命にやってくれてるという気がしましたし、カッコイイです。時間が経っても、あの当時の良さ、アナログ盤の良さがあるっていうのかな。ちょうど、アナログとデジタルの境目の時代だったので、人間の生の音の良さがあって、聴いていてノスタルジックな感じがしました。当時はバブル時代で、結構贅沢にレコーディングさせてもらったり、色んな日本人ミュージシャン、アメリカのミュージシャンとセッションさせてもらったりして。それが形に残って、今再び若い世代も含めて聴いてもらえるというのは、嬉しいですね。やっぱり、頑張って良かったって思います。今聴いても、作曲家、作詞家、アレンジャー、プロデューサー、関わっていた人たちがみんな、ベストを尽くしたなっていう感じがしますね。これを聴いて、あのときの音楽の良さをみんなまたわかってくれたら嬉しいです。

――基本的なことですが、カルロスさんが1986オメガトライブとしてデビューした経緯を改めて教えてもらえますか?

僕は日本でバイトしながら、テレビのコマーシャルソングの仕事をちょこちょこやっていて、仕事を得るためにデモテープを作って色んな制作会社に配ったんですけど、それがたまたまオメガトライブのプロデューサー、藤田浩一さんの手元に届いたらしくて、是非会いたいという話になってお会いしたんです。そのとき、自分は杉山清貴&オメガトライブって、「SUMMER SUSPICION」ぐらいしか知らなくて。どれだけ大きいバンドだったのかを知らなかったので、オメガトライブのメンバーになるという話をされても、あんまりピンと来なかったんですよ。今思えばそれが逆に良かったと思うんですけど(笑)。チャンスを与えてくれるのであれば是非やらせてくださいっていうことで、オメガに入ったんです。もともと自分は歌を歌いたくて、そこにチャンスが良いタイミングで来たという感じで。オメガトライブと巡り会えたのもすごく良い縁で、自分の持っている良さを上手く引き出してもらえたというか。80年代のアメリカのAORやクインシー・ジョーンズだったり、オメガトライブに最初に関わったいろんな方たちが、自分が聴いていたのと同じ洋楽に刺激を受けたりしていて、それがすごくマッチしたというのかな、やりやすかったです。オメガトライブに入って、最初のレコーディングのときも素直に自分を少しずつ出せたというか。音楽って、言葉じゃなくて言葉を超えたエネルギー、音で会話できるじゃないですか?それがすごくできたなって、最初からしました。すごく良いめぐり逢いでした。

――運命的な出会いだったんですね。

今思うと、運命的だったと思います。逢うべき人たちと逢えたというか。だから今でも、新川さん、和泉さんだったり、その当時関わっていた人たちとすごく繋がりが深いです。なんだろうね?やっぱり絆っていうか、すごく強い繋がりができたというか。それだけ本物だったなと思いますね。

――ちなみに先ほどおっしゃったデモテープでは、どんな曲を歌っていたんですか?

あの当時、CMソングとか英語の仕事が多かったので、英語の曲を3、4パターン入れてました。ワム!の「ケアレス・ウィスパー」、それからビリー・ジョエルの「オネスティ」……あとは何だったんだろう?う~ん、思い出せないね(笑)。

――35年以上前のことですもんね(笑)。いずれにしても洋楽を歌っているデモテープが藤田さんの耳に止まったということですね。

そうです。「あ、これ面白そう」って、カルロスが独特の何かを持ってると感じたんじゃないですかね。それで藤田さんに会ったときに、「オメガトライブというバンドが今新しいボーカルを探していて、オメガサウンドにカルロスの声が入ったらどうなるか試したい」って言われて、オーディションを受けたんですよ。そのとき、杉山清貴&オメガトライブの「ふたりの夏物語 NEVER ENDING SUMMER」と「サイレンスがいっぱい」を練習するように言われて。練習して、VAPのレコーディング・スタジオに行って、そこでこの2曲を録音して、合格したんです。「これで、杉山清貴&オメガトライブと違う新しいオメガトライブができる」みたいに感じてもらえたんじゃないかな。

――デビューが決まって一番最初にレコーディングした曲が、「君は1000%」ですか?

いや、一番最初はB面の「Your Graduation」。だからこの曲は、自分にとってものすごくインパクトが強いんですよね。生まれて初めてのレコーディングが自分の好きなバラードで。和泉さんが作ってくれた「Your Graduation」は、すごく良い曲だと思って。卒業式の切ない感じの詞も良くてね。その当時、ブラジルから離れて日本に来て4年経っていて。孤独じゃないんですけど、何か切ない感じが自分の中にあって。この曲にピッタリで、すごく好きな曲でした。その後に録った「君は1000%」はシングルであって「丁寧に作らなきゃ」ということで、時間がかかりましたね。いろいろ直したり、どのキーにするかとか、打ち合わせしながらやりました。「カルロスの声は高音が良いから」ってキーを上げたり。「え~!キツい!」って思いながら(笑)。自分のキーのトップはAなんですよ。「君は1000%」はAなんですけど、「なんでこの曲キツいんだろう!?」って自分で数えたら、1つ上のBのノートが150以上出るんですよ。「ツツツツツーツー」(サビの“君は1000%~”をハミングで歌いながら)っていう、最後のところがキツいんだなと思って(笑)。でも、今回のアルバムの音を聴かせてもらって、新川さんの新たなアレンジを聴かせてもらって、やっぱり名曲だなって思いました。どのアレンジにしても、「君は1000%」のメロディの存在の強さを改めて感じましたね。それだけ、「君は1000%」というタイトル、詞、絶対ヒットしなくちゃいけないというプレッシャーがあったと思うんですけど、だからレコーディングするまでに時間がかかって、最初に「Your Graduation」を録って、その後に「君は1000%」を録ったんです。

――「君は1000%」をヒットさせなきゃいけないというプレッシャーは、カルロスさん自身にもあったのでしょうか。

う~ん、なかったね。自分は「とにかくチャンスが欲しい」っていうそれだけですよね。「チャンスをもらったら、絶対やってみせる」っていう、自分の中の頑固な根性みたいなものがあって(笑)。「ヒットすればいいな」っていう夢はありましたけども、それまでアマチュア、素人だったから、とにかく一生懸命歌って自分を出せれば、あとの結果は良くても悪くてもいいというか。自分がまず満足できるかどうかが、自分のプレッシャーでした。数字とかを気にするような余裕がなかったです。今思えば、杉山清貴&オメガトライブがどれだけ大きいバンドかっていうことを知らなかったのも良かったと思うんですよ。杉山さんをライバルと思うような変な意識もなかったし。

――詳しく知ってたら、意識しすぎて上手くいかなかったかもしれない?

腰が抜けてたかもしれないね(笑)。でも本当に、日本に来て4年目だったから、そろそろ学校に戻らないといけないし、自分の将来を考えないといけないし、オメガトライブと出会ったときは、ちょうど「やめようかな……」って考えていたときだったんですよ。だからこれが最後のチャンスだと思ったし、ダメだったら納得して諦めるっていう感じでした。そのチャンスを逃すまいと必死だったね。とにかく自分は演技できないから自分を出すしかないんだけど、初めてオリジナル曲を歌うから、自分の個性、スタイルってわからないじゃないですか?この曲に対してどうやって自分を出せばいいか考えて、目をつぶって自分が聴いて自分が感動するものを作ろうと思いました。音楽って、もちろんメロディ、歌詞、音、すべて意味があるんだけど、自分の中でもっと大事だったのが、それぞれの曲のエネルギーなんです。例えば、洋楽を聴いて鳥肌が立つ曲がありますよね。そういうものを求めたんです。自分が歌って鳥肌が立つぐらいの何かを見つけなきゃっていうことを、その当時すごく意識しましたね。若かったし、とくに言葉の違いもあってそんなに表現力もなくて。例えば同じ「愛してる」でも、日本とブラジルでは表現の仕方が今でも違うと思うんです。日本の独特の切なさっていうのを自分がまだ理解し切れてなかったときの「Your Graduation」と「君は1000%」のレコーディングでは、音として感動させる何かのエネルギーを、自分から引き出そうと思っていましたね。

――「君は1000%」はデビュー曲にして大ヒット曲になりました。今でも愛されている代表曲ですが、ヒットしたことを受けてどう感じていましたか。

ビックリしました。だってそれまで僕は、レストランかディスコのウェイターのバイトをしながら、歌の勉強をしながら自分の夢をがむしゃらに突っ走ってる人間で。「君は1000%」が発売されて、おかげさまでゴールデンタイムの全国放送のドラマ「新・熱中時代宣言」の主題歌になって、発売一週間でチャートの17位に初登場して注目のアーティストとして、生放送の「ザ・ベストテン」の「今週のスポットライト」に出させてもらったんですね。そうしたらもう、次の日から街を歩けないぐらい、「カルロス、カルロス」ってみんなが知っていて。一瞬でシンデレラボーイみたいになって、有名人になって、みんなから「この人はテレビに出てる人」って思われて。本当に、自分の中ではショックでした。こんなに変わると、人間不信になっちゃいますよね。

――あまりにも急激に変化しすぎたんですね。

自分のその前までの歴史は全部ブラジルで、日本に幼馴染もいないし、家族もみんなブラジルで、日本には何もなくて、本当に1人なんですよ。それがいきなり、みんな僕のことを知ってるというギャップ。これは怖かったですね。曲がヒットしたことは楽しめたけど、自分の生活との違い、とくに人間関係。それまで1人だったのに、急に人が増えて、親戚まで増えて(笑)。あと、バイト先の人で1回も僕を遊びに誘ってくれなかった人が、「カルロス、覚えてる?今度遊びに行こう!」って言ってきたり。そういうことを自分で理解するまで、ショック状態が続いてました。「この変わり方は怖いな」って思ってました。

――毎週、テレビに出てましたもんね。

もうずっと出ていましたから。みんなが僕を知ってるけど、僕は友だちもいないっていう、一方的な状態で。さみしかったよね。やっぱり、「あ、オメガトライブのカルロス!」「ベストテンに出てる売れてる人」っていうのがスタートじゃないですか?だから本当の純粋な友だちってなかなかできなくて。それが一番辛かったかもしれないね。やっぱり、自分の家族、幼馴染って本当に大事だなって思いました。今でも、ブラジルの幼馴染は昔と変わらないですからね。「あのときの少年のカルロス」っていう風に見てくれるから。日本でそれがあったら、もっと楽だったかもしれないですね。

――カルロスさんにとって辛い時期だったはいえ、「君は1000%」で1986オメガトライブを好きになって今も聴いている日本のファンは多いです。

それはもう、感謝ですね。去年は行けなかったですけど、一昨年に日本でライブをしたときに、こんなに時間が経ってもみんな僕の曲を覚えていてくれて、若い人たちも観に来てくれたり。本当に感謝ですね。だから頑張って良かったと思います。いろんな意味で、自分はすごく贅沢な経験をしたと思います。孤独から人気者まで、すべての経験をさせてもらいましたから。それは今の自分にとってすべてプラスになっていると思います。

――今回はオリジナルの「君は1000%」に加えて、新川さんが新しいアレンジを施した「君は1000% 2ndline」が収録されていますが、聴いてみていかがでしたか?

いやあ、もう最高ですよ。新川さんのサウンドと僕の声って安心感があって。コード感、音色からすべて、自分の声とすごくマッチしていて。今のカルロスと、1986オメガトライブのカルロスをブレンドしたような感じの印象を受けて、両方の良さが出ている気がしました。「いろんな経験をして大人になった今のカルロスが「君は1000%」を歌うならこうなんじゃないかな?」って思わせるぐらい。

――今のカルロスさんのフィーリングに合いますか?

合いますね。今、デジタルの時代の中であんなにシンプルでアコースティックでチャカチャカしてなくて、人間のエネルギー、ミュージシャン、自分の声、それが出ている気がするよね。ソロのトランペットだったり、裏のカッティングの70年代サウンドを思い出せるような懐かしい感じとか。本当に、新川さんのアレンジと僕の声はすごくマッチしているっていう感じですよ。他の曲を聴いてもリミックスによって、音、コードとテンポ感と自分の声のマッチが本当に素晴らしいです。

――では、その他の曲についても思い入れやエピソードをお聞かせください。まず「Super Chance」。

「Super Chance」は、富士フイルムの「フジカラー」という商品のCMソングのタイアップが決まって。CMには南野陽子さんが出ていて、最初にそのCM映像を見て曲を考えたんですよ。だから、「CMが何月何日にオンエアになるから」って、最初にサビだけ作って録ることになったんです。それを聞いて「ええ~っ!?」と思って(笑)。その後に「じゃあ、AメロBメロを考えましょう」となったのかはわからないんだけど、とにかく自分はサビだけレコーディングして、その前後がないので、「どういう曲になるんだろう?」と思ってました。そのあと曲が出来上がって、こういう作り方もあるんだなと感じた思い出があります。自分もデビュー前にCMソングの仕事をしていましたけど、まずサビの30秒だけ作るっていう作り方は初めてで。とにかくサビのインパクトの印象が強いですね。

――実際、CMはすごく頻繁に流れていましたけど、カルロスさん自身はテレビCMから自分の歌声が流れてきてどう感じてましたか?

もう、嬉しいですよね。売れる売れないというよりは、自分の歌がテレビに出てるということが先にあって(笑)。「Super Chance」が、「ザ・ベストテン」「歌のトップテン」で初めて1位になったのかな。それもすごく印象的で。それと、「Super Chance」がヒットしたときに、「夜のヒットスタジオ」がうちの両親をスタジオに呼んでくれたんです。あのときは、すごいインパクトがありましたよ。両親が来て、自分の一番輝いている姿を見せることができるっていう。じつはあれは、お母さんがその前まで高血圧から脳梗塞で倒れて入院していて、飛行機に乗るのは絶対に無理だと思ってたんですよ。直前に退院して、高血圧で30時間の長旅は無理だろうと思っていたんです。だから、お母さんの姿を見たときはもうボロボロ涙が出ました。奇跡だと思いましたね。この曲が唯一、生でお父さんとお母さんに歌ってあげられた曲なんです。もう、泣きながらで歌にならなかったんだけど(笑)。だから、「Super Chance」は信じて応援してくれた両親への恩返しができた曲という思い出がありますね。

――では、「Crystal Night」はいかがでしょうか。

「Crystal Night」は、2ndアルバムのタイトル曲ですよね。これは複雑な気持ちの曲ですね(笑)。「Super Chance」がヒットして、1stアルバム『Navigator』がリリースされて、嵐のようにライブがあって。当時、ツアー、イベントとか学園祭を入れて160本ぐらいあったのかな?昨日まで素人だった自分がそんなスケジュールの中でアルバムを作るという話になってたんです。コンサートが終わって自分1人で飛行機か新幹線に乗ってマネージャーとスタジオに行って、打合せしてレコーディングした覚えがありますね。「君は1000%」も含めて『Navigator』は、たっぷり時間をかけて作れたというか。打合せして、曲も自分が歌うまで聴いて詞をもらって、「よし、レコーディングいこう!」っていう感じだったんだけど、「Crystal Night」はもう、スタジオに入ってそこで詞をもらった覚えがありますね。藤田さんは、カルロスは日本離れしている独特のものを持っているから、それをどう引き出そうということを、ちょうどアルバムの『Crystal Night』で曲の感じもいろいろとトライしてみたり、挑戦し始めた感じなんですよね。だから自分にとってすごく新鮮で、チャレンジ的な新たな世界でした。「Crystal Night」はその中でも代表的な曲かな。ああいうメロディ、転調、サビに英語も入って。それとそのときEVEのコーラスも入って、新しい世界だなって感じました。自分にとって大人っぽかったよね。ただ、覚えていることは、とにかく忙しくて孤独だったということなんですよね。メンバーがツアーの移動をして、僕だけ東京に戻ってレコーディングしてっていう(笑)。あれだけコンサートをやりながらアルバムを1枚作ってシングルを3枚作って。う~ん……よくやったよね(笑)。だからもう、「Crystal Night」は本当に「若さでやろう!」っていう感じでね。ライブ、ツアー、テレビも「ザ・ベストテン」「歌のトップテン」で旅先の中継があったりとか。ラジオ番組も3、4本レギュラーを持っていたし、雑誌の取材とかも毎週、毎週で。今では考えられないですね。それだけ仕事ができるっていうあの時代は、恵まれてましたね。

――今の時代にそんなスケジュールのミュージシャンいないですよね(笑)。

いないですよね。だから、ひとつ言えるのは、「これをこなせるのは、ただ者じゃない」ってことですよね(笑)。本当にね、辛かったけど今考えると、これを乗り越えた自分に怖いものはないっていうことですね。いろんな意味ですごく強い人間になれた時期でした。それが「Crystal Night」のインパクトでしたね。「うわ~こんなに忙しいのに!?よし、レコーディング」っていう切り替えね。もう、無理やり曲を覚えさせられましたから(笑)。

――「Crystal Night」の歌詞は、藤田さんとカルロスさんの名前がクレジットされてますよね。これは英語の部分をカルロスさんが書いているということですか。

そうです。いつも藤田さんから英語のフレーズとかを「カルロス、考えて」って言われていて。結構好きだったので、EVEのコーラスも僕が詞を考えたり、他の曲でもレコーディングスタジオでメロディを聴きながら詞を説明してもらってひらめきで英語のフレーズを考えたり。自分のクレジットが載ったのは嬉しかったですね。今は普通になってますけど、あの当時は良い発音で英語を歌えるというのがなかなか珍しいというか、それがオメガトライブのお洒落なイメージに繋がって、ひとつのオリジナリティになっていたんじゃないかなと思います。

――他にも、今回のリミックスアルバムの中で印象的だった曲はありますか?

「Stay girl Stay pure」も、プロデューサー、作曲家、作詞家がすごく冒険した曲ですね。本当に洋楽っぽい感じで。この間、僕が出たテレビのビデオを見たら、そこに出ていたミッツ・マングローブさんが、「カルロスは、日本人が日本語で理解できる洋楽」って言ってくれてたんですよ。あ~、なるほどなって。自分は洋楽の良さを、オメガトライブのサウンドに自然に入れたというか。「Crystal Night」もそうだし、「Stay girl Stay pure」も独特の16ビートで、それが自分が持っているものかなって。今、ブラジルに帰って思うのは、なんでブラジルのアーティストのライブに行くと安心できるのかというと、16ビートなんですよね。「君は1000%」のとき、演奏は8ビートなんですよ。だけど自分は8じゃなくて16に感じないと安心できないんですよね。16ビートに聴こえないと、自分の足が16で取っちゃうんです。あの当時からそうだったんだ、というのは後で発見したんだけど(笑)。なぜかというと、自分の中で8ビートで歌うとかったるいというか、もたるんです。それを16ビートで取ると軽さが出るんですよね。だから、重くなりすぎないように心地良くなる16ビートでリズムを取って歌っていたのが上手く行っていたんじゃないかと思います。

――3rdシングルの「Cosmic Love」なんかは16ビートのダンス・チューンですから、得意なパターンだったわけですね。

それは、自分より先に藤田さんと和泉さん、新川さんがわかってたということですよね (笑)。あと、ツアーのサポートメンバーのリズム隊を黒人にしたのも、今すごく納得してますね。やっぱり16の軽さがないと自分の良さが出ないんですよ。まあ、自分で出せなかったというわけではないんですけど、それだと「日本人が日本語で理解できる洋楽」にはならなかったかもしれないし、歌謡曲っぽいポップスになってたかもしれないね。だから、そのビート感が杉山清貴&オメガトライブと1986オメガトライブの一番大きな違いかな。今思うと、自分の体の中に自然に流れている16ビートが、たぶん今でもみんなが新鮮に聴いてくれてる理由なんじゃないかなっていう気がしますね。

――当時の日本の歌謡曲っぽさもありながら、洗練された洋楽のダンス・ミュージックの要素もありますよね。それが今のJ-POPのベースになっている気もします。

そうですね、見ているとその流れがありますよね。今みんな16ビート上手いですよね(笑)。

――日本語の歌詞を歌うことについては、苦心したところもありましたか?

最初の頃は、日本独特の言葉の深い意味を理解するのがむずかしかったです。だから、日本人の切なさのニュアンスは最初は出てなかったと思います。最初は、歌うときには自分の声を楽器だと思って、一番良い響き、一番良い音色、一番良い表現を、楽器としてやってました。意味がわかるようになってからは、ちゃんと自分でも歌詞に参加して、コンセプトを理解して歌えるようになりましたね。デビュー当時は日本語が持つ切ない感じの言葉の表現の裏の意味とか、それがむずかしかったです。

――他に、レコーディングのエピソードで覚えていることはありますか?

もちろん日本のミュージシャンも素晴らしい方々とばかりやらせてもらったんですけど、ロスで初めてレコーディングしたときに、憧れの人たちとセッションできたことですね。あの当時ちょうど、マイケル・ジャクソン、クインシー・ジョーンズの絶頂期だったんですよね。だから、ポール・ジャクソン・ジュニアのギターとか、ジョン・ロビンソンのドラムとか、ジェリー・ヘイの生のホーンセクションとか、そういう人たちと仕事できた感動はすごかったね。杉山清貴さんが書いてくれたバラードがあって、サックス・ソロをトム・スコットが吹いてくれたんです。そのとき、彼がスタジオの灯りを暗くして雰囲気を作って生で吹いているのをでっかいスピーカーで聴いたときは、「うわぁ~!」って鳥肌が立ちましたね。ポール・ジャクソン・ジュニアのあの複雑で器用なカッティングもそうだし。面白かったのは、キャピタル・レコードでレコーディングしたときに、ミュージシャンそれぞれにこだわりがあって、みんなで「せーの」で録って、「ああ、俺はこのトラックでOK」って言うんですけど、ポール・ジャクソン・ジュニアだけ、「いや、もう1回やりたい」って一生懸命演奏していて。その間、他のメンバーはバスケットボールやってるんですよ(笑)。みんなが遊んでいる中でポール・ジャクソン・ジュニアは全然平気で複雑なフレーズを集中して演奏しているという。「この人たちはすごいな!楽しんでやってるんだな」って思ったことが、レコーディングで一番印象に残ってるエピソードですね。

――では、ライブについてはいかがでしょう。

ライブは全部かな。もう、夢のようで。でもやっぱり、一番印象的なのはデビューして初めてのライブかな。それまでレストランの皿洗いとかをやって、まったく誰も知らない、ブラジルから来た日系人が、デビューして4か月後ぐらい、まだアルバムが出るか出てないかの頃だと思うけど、曲数も9、10曲ぐらいしかないときにデビューライブをやって。初めて、2000人ぐらいの満員の人の前でコンサートをするっていう、あのインパクト。あれは今でも思い出すと、嬉しさと緊張と怖さと幸せと、全部が混ざったような気持ちというか。自分の夢が叶ったって、初めてそこで実感して。「日本に来て夢を見て、今ここに立ってるんだ」っていう嬉しさと、恐ろしさ(笑)。あとは、日本語が喋れなかったから、MCをどうしようかって。喋らなきゃいけないから一生懸命喋るんだけど、なんか会場が笑ってて。それが自分ではどうしてなのかわからなかったんですよ(笑)。恐らく、変な日本語で喋ってたんだと思うけど。「なんでみんな笑ってるんだろう?」って思ってた(笑)。

――そんなところも、カルロスさんが日本中に愛された理由のひとつだったんじゃないでしょうか。

そうですね。今、自分で見ても「すごくかわいかったな」って思うから(笑)。一生懸命でピュアで素直っていうか。でもその当時は何もわからなくて、がむしゃらに必死にやってたから。デビューライブは一番インパクトがありましたね。2000人ぐらいのお客さんが10万人ぐらいに見えたというか、みんなの視線が自分に来てる恐ろしさがありました。

――改めて、カルロスさんにとって、1986オメガトライブ/カルロストシキ&オメガトライブはどんな存在でしたか。

誇りに思いますね。自分が歌手としてミュージシャンとして持っているものすべてを勉強させてもらった学校のようなものでした。藤田さんのプロデュース、新川さん、船山基紀さんのアレンジ、和泉さんの曲、作詞の売野雅勇さんや有川正沙子さんとか、色んな人たちと仕事ができて、色んなことを学んで、それと同時に贅沢させてもらったというか。もう、この方々に感謝ですね。どれだけみんなが一生懸命作ってくれたのかが今聴いてもわかります。言葉、カルロスの声の良さ、もう全部ですね。改めて今回のリミックスを聴いて、100%それぞれが尽くしてくれたなって思います。本当に感謝してますし、自分の中では誇りに思うバックグランドです。後にソロでやったりしたけど、1986オメガトライブがあったからこそ、「自分はアーティストとしてこういうことをやりたい」というものがあったし、ソロ作品を今聴いても、自分が納得いくものを作れたと思ってます。自分はいつも、自分のベストを出せればそれで満足してました。例え売れても、自分が「ああ、これはイマイチだな」と思ったら、幸せじゃなかったと思うんですよね。ちゃんと誇りに思えるものが、世の中に認めてもらえるというのは最高でした。

――では、日本のファンのみなさんにメッセージをいただけますか。

ファンのみなさんには、本当に感謝しています。こんなに時間が経っても、僕の音楽を待っててくれたというか、僕のことを忘れずにいてくれたというか。あの当時のファンの方が、僕と同じで40代、50代になって、長い人生の中で、「カルロスの歌声が自分の人生で大切なもの」って思ってくれるだけで、僕はすごく幸せですね。それを感じるだけで、すべてやって良かったと思います。自分が遠いブラジルから日本に行って、デビューするまで4年間いろんな思いをして、がんばって良かったです。自分がちゃんと良い種を植えてそれがちゃんと実になって、美しいものが咲いたという感じがします。それはもう、お金に代えられないものですね。

今の新しい世代は、日本の漫画のコスプレをしている人なんかもブラジルに結構いるんですけど、そういう日本文化の中で、80年代のJ-POPが光っているというか。自分は良い時代にデビュー出来て、良い時代に音楽をやらせてもらったと思いますし、それが今の日本の音楽に影響を与えて、次の世代に何かを残せる刺激を与えられるというのは、本当に嬉しいですね。あと、個人的に思うのは、最近音楽を聴くのがものすごく簡単になりましたよね。ブラジルでもSpotifyで聴きたい音楽が検索すれば聴ける時代になって。今の日本のヒット曲を聴くと、「やっぱり日本の音楽ってみんなきちんとやってるんだな」って思うんです。個人的な思いだけど、今の世界でやってる音楽ってつまんないんですよ(笑)。ビートだけのループの繰り返しで、聴いても何も残らなくて、刺激を受けないんです。だけど、日本の音楽を聴くとホッとするんです。日本のミュージシャンのメロディやサウンド作りは、日本人の器用な部分があって、それが今でも続いているのが嬉しいですよね。そのルーツに自分たちがいたというのも、やっぱり誇りですね。韓国の音楽が世界で流行るようになってるけど、日本もそうなるのにそんなに遠くないかなと思うし、音楽としてはものすごく面白いと思います。今の世界の音楽の中で、自分には日本の音楽が光って見えるのが嬉しいですね。

――また日本でライブ・パフォーマンスを見せてくれますか?

今はコロナウィルスで大変な状況になってますけど、早く日本に行ってまたファンと一緒に楽しいライブがやりたいですね。きっとみんなも、そういう温かいエネルギーに飢えてるんじゃないかなっていう気がして。早く行きたいです。だからもうちょっとみんなで頑張ってこれを乗り越えて、またお会いしましょう。そのときは是非ライブに来てください。

取材・文:岡本貴之

1986 OMEGA TRIBE Music Comment

今回収録された1986オメガトライブの名曲の誕生にまつわるエピソードを紹介。
思い入れのある楽曲を聴きながら、当時を振り返ってもらいました。

カルロス・トシキ Carlos Toshiki

“Super Chance”
「Super Chance」は、富士フイルムの「フジカラー」という商品のCMタイアップソングで、「CMが何月何日にオンエアになるから」って、最初にサビだけを録ったんです。その前後がないので、「どういう曲になるんだろう?」と思ってました。そのあと曲が出来上がって、「こういう作り方もあるんだな」と感じた思い出があります。それと、「Super Chance」がヒットしたときに、「夜のヒットスタジオ」がうちの両親をスタジオに呼んでくれたんです。あのときは、すごいインパクトがありましたよ。両親が来て、自分の一番輝いている姿を見せることができるっていう。もう、泣きながらで歌にならなかったんだけど(笑)。信じて応援してくれた両親への恩返しができた曲という思い出がありますね。

“Crystal Night”
2ndアルバム『Crystal Night』で藤田さんは、カルロスは日本離れしている独特のものを持っているから、それをどう引き出そうかということに挑戦し始めた感じなんですよね。「Crystal Night」はその中でも代表的な曲かな。ああいうメロディ、転調、サビに英語も入って。EVEのコーラスも入って、新しい世界だなって感じました。ただ、覚えていることは、とにかく忙しくて孤独だったということなんですよね。メンバーがツアーの移動をして、僕だけ東京に戻ってレコーディングしてっていう(笑)。あれだけコンサートをやりながらアルバムを1枚作ってシングルを3枚作って。う~ん……よくやったよね(笑)。

髙島信二 Shinji Takashima

“Blue Reef”
杉山オメガ解散から1986のデビューまで、自分の居場所と存在意義を探していた気がします。それまでの“バンド”とはニュアンスの違う、イマで云う所の音楽ユニットとしての再デビューに少なからず気負っていました。もし当時のデモテープが残っていたら聴いてみたいなぁ…まだPCも打込み機材も使っていないから、きっとあの三洋製のラジカセを前にギターを弾きながら録っては消し録っては消ししていたのでしょう。この曲の作り始めはレゲエ調と云うか、1拍6連を感じる少しハネたストロークなんだけど凄くゆる~い気分でメロディを紡いだイメージが残っています。夏景色が浮かぶような新川 博さんのアレンジでポップに生まれ変わりましたね、ハーモニカの間奏というのも新鮮でした。バンドアレンジだけではなかなか辿り着かない境地ですし、結果的にデビューアルバムのオープニング・チューンに選ばれる事になり些か照れくさかったです。

西原俊次 Toshitsugu Nishihara

“Night Child”
当時、僕はデヴィッド フォスターが大好きで、メロディアスで印象的なイントロを持った数多く作って、Night Childもその一曲です。作り始めると思い通りのイントロが浮かび、 Aメロ、Bメロ、サビと速いペースで完成した覚えがあり、カルロスも気に入ってくれて、コンサートツアーの度に、演奏しましたね。 そんな思い出のあるNight Childは自分にとっても大事な一曲です。

編曲家 新川博 Hiroshi Shinkawa

“Aquarium in Tears”
この作品はオメガトライブとしてもごく初期の作品で僕も好きな楽曲のひとつです。ミディアムテンポのこういう佳曲が僕は大変好きでカルロスの声にもとても合っていると思うのですが、いかがでしょうか。夏が似合うアーティストというのも沢山いるのですが、カルロスのオメガトライブの場合はギラギラ太陽の原色系ではなくて、「空調の効いたカフェから見る海辺の様子」的な感覚だと思うのです。そして、この作品の場合その雰囲気を醸し出す楽器の一つがコーラスです。正式にはバック・グラウンド・ヴォーカルというのですが、このレコーディングのメンバーは、その後、正式メンバーになるジョーイ・マッコイ、ベースのウォーネル・ジョーンズ、それにマクサーン・ルイスという黒人女性の3人組で録音しました。この3人のハーモニーが入るとあら不思議!涼しげな風が吹くというか、夏らしいリゾート・ソングに生まれ変わるのです。今回のリ・ミックスではオリジナルより更にコーラスを大きく調整していただきました。そうぞ、夏の海風のようなコーラス・サウンドをお楽しみください。

“Cosmic Love”
この楽曲は僕にとって大変印象的というか、試行錯誤の課題曲というべき楽曲でした。カルロスはオメガトライブにとって2代目のヴォーカリストで、初代は夏・リゾート・海辺のサウンドというものでした。取り敢えずは初代コンセプトを踏襲する形でスタートするのですが、やはりカルロスならではのオリジナリティーを作らないと意味がないとスタッフ全員感じ始めました。そこで考え出したのが「逆も真なり」という発想。もう180度違うサウンドを作ってみました。海=生ギターやウクレレですが、そうではなくて都会的に楽器はY.M.Oのようなシンセサイザー、リズムは当時ブラコンと言われた、ジャム&ルイスやベビー・フェイスのようなディスコサウンド。レコード・ジャケットも大都会の夜景。さぁ、どうなるでしょう・・・? そこにカルロスの声が乗っかると・・・やっぱりナチュラルなリゾートソングが出来上がるのです。しかし不思議です。それは、誰にも真似のできないカルロスならではの都会的なオメガトライブ・サウンドが完成したのです。

作曲家 和泉常寛 Tsunehiro Izumi

“君は1000%”
私は最初1000%を単に100%を遥かに超えるといった意味と思ってました。ところがある時、プロデューサーの藤田さんから「カルロスからブラジル語で100をセンと発音すると聞いて浮かんだ。」と聞き、「200%や800%じゃダメで、1000%でなければならなかった」ことを初めて知りました。1000にちゃんと理由があっったんですね。タイトルに非常に拘る藤田さんらしいエピソードです。

“Your Graduation”
カルロスのPureな歌声にバラード調の曲はよく合います。その後の活動の中でも幾つか素晴らしいバラードを唄っていますが、この曲がそのスタートと言って良いでしょう。当初『君は1000%』との両A面で、という声も出て、藤田プロデューサーも一瞬迷っていたことを思い出します。

“Miss Lonly eyes"
この曲の間奏で唄っているのは、マックス・アンというアフリカ系アメリカ人の女性です。ライブ等でご覧になった方はご存知と思いますが、短い時間の歌唱でステージに異空間を創り出してしまう、実力派の素晴らしい歌手でした。契約の関係もあって短い期間のサポートメンバーでしたが、夏の夜のサマーランドではカルロスとのデュオも見せてくれました。素晴らしかったですね。

編曲家 船山基紀 Motoki Funayama

“Navigator”
制作メモ-
1986年5月24日、赤坂にあったFREEPORT STUDIOでそのRecordingは行われた。
地下1階のそのスタジオで13時にスコアからのパート譜が完成し、直ちに打ち込みを開始。
船山はFairlight IIIのPage RというSequencerにてHiHatのパターンを作り、ついでOpcode VisionによりKick,Snare,Tom→Emulater II, Crash Cymbal→Roland TR707,Kurzwell K250、以上の各楽器によってDrumsを担当。

同時にマニュピレーターの助川宏がRolland MC-4によりProphet5のSynth.Bass打ち込みと音色作り。Roland Jupiter8での全編通したSequenceデータと音色作り(イントロ後半から聞こえる、いわゆるピコピコしたシンセ)。

これで15時頃に基本的なドラムベースが大体完成したところで、キーボーディストの山田秀俊によって細部の色付けに入る。
まずPadと呼ばれるコード感、サウンドの壁を楽曲の部分部分で音色変えながら手弾きしながら、録音していく。オメガの場合非常にシビアなサウンド形成が要求されるため、Aメロ、Bメロ、サビで同じ音色は使っていないが、最終的にPadはほとんど聞こえないバランスが普通で、要はアーティストが歌の雰囲気を掴みやすくするのが主目的である。
これ以外にも、船山がその場で思いついたフレーズ(サビ前のキラキラシンセ)、サビのKurzweil K250のストリングスラインなどを随時録音してシンセダビングは終わり。

21時過ぎにギタリストの今剛が到着して、ベイシックギタートラックを1時間半、ソロギターダビングを30分ほどでこの日は終了。
後日、麻布台の日音スタジオ(現Sound City Annex)にてTrumpet 数原晋、Tenorsax. Jake H.Concepion、他でブラスダビングをし、歌入れ後コーラスサポートで比山貴咏史 、木戸やすひろ、の録音を行なった。

船山が担当した1986オメガトライブの作品はだいたいこのような流れで録音されたものである。

(資料提供:梶田昌史氏)